溜池 敏隆(ためいけ としたか、1944年4月18日 - )は、大阪府泉南郡岬町出身の元プロ野球選手(内野手)。
来歴・人物
興國商業高では、1962年に三番打者、遊撃手として春季近畿大会決勝に進むが育英高に敗退。同年夏の甲子園大阪府予選でも決勝に進出するが、戸田善紀投手、中塚政幸一塁手のいたPL学園高に敗れる。高校同期に田中辰次右翼手がいる。
高校卒業後は立教大学へ進学。2年生からレギュラー三塁手となるが、その後は野々山輝秋(富士製鐵名古屋)が三塁手に入ったため、外野手に回る。東京六大学野球リーグでは、1966年春季リーグで優勝。大学同期に若月宏之(全大丸)、石川洵(鐘紡)両投手、村上公康(中退)、槌田誠両捕手がいた。1964年春季リーグ慶立2回戦で、慶大の渡辺泰輔投手がリーグ初の完全試合を記録した際の立大の三塁手である。また星野仙一(明大)にノーヒットノーランも喫している。
大学卒業後は、社会人野球の日本熱学へ入社。1968年には三塁手、四番打者として通算打率3割5分、本塁打13本。同年の都市対抗野球にも出場するが、1回戦でリッカーミシンの佐田康英、吉村典男両投手に抑えられ敗退。
1968年のプロ野球ドラフト会議でサンケイアトムズから2位指名を受け入団。1969年にはジュニアオールスターにも出場し本塁打を放つ。俊足の大型内野手で城戸則文の後継を期待され、1970年には三塁手として39試合に先発出場。しかし打撃面で伸び悩みレギュラーは奪えなかった。
1971年には自己最多の78試合に出場するが、荒川堯が入団したこともあり、同年オフに山田勝国とのトレードで近鉄バファローズへ移籍。ここではあまり出場機会がなく、1974年限りで現役を引退した。
詳細情報
年度別打撃成績
- アトムズは、1970年にヤクルト(ヤクルトアトムズ)に球団名を変更
記録
- 初出場:1969年4月14日、対読売ジャイアンツ3回戦(後楽園球場)、三塁手で途中出場
- 初打席:同上
- 初先発出場:1969年4月27日、対大洋ホエールズ3回戦(下関市営球場)6番・三塁手
- 初本塁打・初打点:1969年5月29日、対阪神タイガース9回戦(神宮球場)8回裏に柿本実からソロ
背番号
- 35 (1969年 - 1971年)
- 26 (1972年)
- 33 (1973年 - 1974年)
関連項目
- 大阪府出身の人物一覧
- 立教大学の人物一覧
- 東京ヤクルトスワローズの選手一覧
- 大阪近鉄バファローズの選手一覧
外部リンク
- 個人年度別成績 溜池敏隆 - NPB.jp 日本野球機構




