ジョン・アンスティス(英語: John Anstis 、1708年11月17日 – 1754年12月5日)は、イギリスの紋章官(ガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズ、在任:1727年 – 1754年)。1725年に復活したバス騎士団の初代ブラン・クールシエ・ヘラルド(在任:1726年 – 1754年)を務めた。

生涯

紋章官ジョン・アンスティスと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓カッドリップ(Cudlipp)、1675年ごろ – 1735年ごろ、リチャード・カッドリップの娘)の第7子として、1708年11月17日にセント・クレメント・デーンズで生まれた。ウェストミンスター・スクールを短期間通った後、家庭教師ミシェル・メーテールの教育を受け、1725年9月8日にオックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジに入学した。

1725年5月にバス騎士団が再創設されると、騎士団付き系譜学者に任命された。バス騎士団付き系譜学者の兼任するブラン・クールシエ・ヘラルドには1726年1月14日に指名され、1727年10月6日に正式に任命された。また、父が1719年よりガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズを務めていたが、1727年6月9日に父との共同就任が決まり、1730年6月18日に宣誓して正式に就任した。

1730年10月16日にミドル・テンプルに入学、1731年10月29日に弁護士資格免許を取得した。

1733年、父とともにガーター・キング・オブ・アームズとしてデン・ハーグに向かい、オラニエ公ウィレム4世にガーター勲章を正式に授与した。それ以外にも度々単独で大陸ヨーロッパに向かい、外国の人物にガーター勲章を授与した。1736年7月21日、ロンドン考古協会フェローに選出された。

1744年3月4日に父が死去すると、その遺産を継承し、単独就任として引き続き紋章官を務めた。1749年4月13日にオックスフォード大学よりD.C.L.の学位を授与され。14日にミドル・テンプルの評議員に選出された。1753年にはミドル・テンプルの朗読者(reader)を務めた。

1754年12月5日、生涯未婚のままモートレイクで死去、コーンウォールのデューローで埋葬された。

評価

一般的には紋章官として有能だとされるが、「激しく執念深い」(violent vindictiveness)性格だったため敵が多く、特に紋章院での同僚に敵視されることが多かった。たとえば、同時代の紋章官ジョン・ウォーバートンはおそらく敵意をもってアンスティスを「特筆すべきことは(紋章学について)何も知らないことだけ」(only remarkable for knowing nothing whatever of the matter)と評している。

出典


1842 Wikipedia

「1844」の画像 551 件の Stock 写真、ベクターおよびビデオ Adobe Stock

オーストリアのクラシック作曲家一覧

1819年 英国アンティーク ジョージアン シルバー 純銀製 花束のティーキャディ スプーン シェルカップ ノッティン アンティークス

Erzherzog Johann